「応仁の乱の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

応仁の乱
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応仁・文明の乱は応仁元年(1467)~文明9年(1477)、越後・信濃・駿河以東と南九州を除く、諸国の守護らが細川勝元と山名持豊(宗全)を領軸にして東西両軍に分かれ、京都を中心舞台にして戦った大乱。
原因は土一揆、徳政一揆に代表される庶民の成長・台頭が荘園制や守護国制の基盤を揺るがす大事件「嘉吉の乱」で矛盾を露呈し幕府権力の弱体化が、将軍足利義政の下でさらに進み、政治も混乱の度を越えたこと、長禄・寛正の飢饉が起こり、社会不安が広がったこと、などを背景に上げらえる。乱の直後原因は、将軍家や畠山氏・斯波氏などの有力守護家に家督争いが起こり、幕府の実権を争う勝元と宗全がそれぞれを支援して、二大派閥が形成されたことにある。畠山氏では享徳3年(1454)畠山持国の後継者畠山義就に反発する被官らが持国の甥弥三郎を擁立、勝元も弥三郎・政長を支持した。義就は寛正元年(1460)政長はじめ幕府軍の追討受け、足掛け4年間河内嶽山城に籠城した。この嶽山合戦が、応仁・文明の乱の前哨戦となった。斯波氏では、義建の死後一族の斯波義敏が継いだが守護代と対立して失脚、宗全が画策して渋川義鎮の子斯波義康が後を継ぎ、義敏は勝元を頼った。将軍義政が定見もなく守護監督の安堵と追放を繰り返したことで守護家の家督争いは一層抜き差しならないものとなり、細川・山名領派閥の形成と対立の深刻化を助長することとなった。一方、将軍義政にははじめ男子がいなく、弟足利義視を後継者と定めた。しかし1465年義政室日野富子の足利義尚が生まれ、その庇護を宗全に託した。1467年正月に宗全の支援を受けた畠山義就が赦免され、勝元方に管領畠山政長は失脚、斯波、司馬義康が慣例に任じられた。政長は京都上御霊神社で義就と戦ったものの退却し、上御霊神社の戦いが、大乱の導火線となった。緒戦に敗れた勝元は、山名方の領国でゲリラ活動に出て行動を開始、ついに細川一族の成之・常有・勝久、斯波義敏、京極持清、赤松政則、武田信賢、畠山政長らの軍勢を京都に集めた。これに対抗して山名側も、一族の勝豊、畠山義就、六角義直、管領の斯波義康、畠山義統、六角高頼、土岐成頼、一色義直、管領の斯波義康、畠山義就らが集結した。そして5月26日、細川方から山名方を攻撃して、大乱の幕が切って落とされた。細川方は室町第(花の御所)と細川邸を本営として、山名方はその西側の堀川を隔てた山名邸を本営とされた。細川方は東軍、山名方は西軍と呼ばれた。東軍の兵力は16万1500余名、西軍方は大内軍を加えて11万6000余名の戦力で約10年間、京都を荒廃させ不毛な戦いが繰り広げられた。
応仁の乱はこのように義就、政長の抗争を軸としてみると、真に大乱が終息するのは1485年(文明17)の山城国一揆成立であり、畿内(きない)の農民、土豪の自立、成長が、無意味な守護大名の抗争に終止符を打ったという評価もできよう。以後、大乱に参加した諸大名は、幕府の権威による分国支配が困難となり、実力による領国統治権の確保の必要性に迫られることになった。また幕府の実質的支配領域、すなわち幕府の威令の届く範囲も漸次縮小され、1487年(長享1)の六角征伐、1493年(明応2)の河内出陣を通じて幕府の動員兵力は畿内近国の守護軍と奉公衆に限られるようになり、幕府の裁判権行使も畿内に限定されてくる。このように事実上、畿内政権と化した室町幕府を、実力で押さえるようになるのが細川氏であった。同氏は他の大名と異なって、家督紛争を起こさず族的結合を維持し、乱中乱後を通じて首脳部が京都に常駐し、1493年4月の政変で将軍の廃立を強行し、政敵畠山政長を暗殺してからは完全に幕閣の主導権を掌握した。細川氏が畿内において戦国大名化の道を踏み出したこの年を、戦国時代の始まりとする説が有力である。政所執事、侍所開闔(かいこう)、右筆方(ゆうひつかた)など幕府の諸機構は、事実上、細川氏の行政機関化するに至る。
 地方では荘園制の解体が決定的となり、守護代層や有力国人が台頭し、彼らのうちには自ら戦国大名化する者も出現した。荘園制と在地領主制を基軸とする中世国家の枠組みが最終的に崩壊するのも、この乱の重要な結果である。したがって、日本の歴史を二分する大きな時代転換の契機をこの大乱に求める説が有力である。一方、戦争による混乱にもかかわらず、義政の浄土寺山荘を中心に東山(ひがしやま)文化という公家(くげ)、武家、禅の融合による新しい思潮、芸術が発生し、戦乱を地方に避けた僧侶(そうりょ)や公卿(くぎょう)たちによってそれが地方に伝播(でんぱ)された。この文化は、庶民の生活様式のなかに定着するという重要な一面をもち、近世庶民文化の源流をなす意義をもつ。また、戦火を免れた奈良は京都に次ぐ大都市として発展し、一条教房(いちじょうのりふさ)が乱を避けた土佐(とさ)中村や、京の禅僧が多く流寓(りゅうぐう)した周防(すおう)山口、出雲(いずも)富田(とだ)は、戦国大名の庇護(ひご)とも相まって、西国における新興都市として文化の中心地となっていった。応仁の乱は大儀無き約10年間も不毛の戦いであり、一族を二分にして消耗戦を繰り返し、得るものは何もなかった。京都の町は荒廃し、治安が乱れ、天候不順の飢饉が諸国を襲った。足利幕府の統治能力の欠如が無法地帯を作り、下克上と理不尽で自分たちの一族の都合を優先させた異夢同床の離合集散の両軍の戦いであった。
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「平安摂関家の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

平安摂関家の群像
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「摂関家。摂政・関白の職に就く家柄。9世紀後半に藤原氏北家の良房・基経によって例を開いた摂政・関白の職は基経の子忠平のとき、摂関制としての形を整えた。忠平の長子実頼は冷泉朝の関白・円融朝の摂政となる。その没後は、外戚政策に成功した実頼の弟師輔の長子伊尹が継ぐが、伊尹の弟兼通・兼家の対立の結果、関白となった実頼の子頼忠を最後に、摂関は兼家に独占される。兼家の子道長は、兄たちの後を受けて関白に準ずる文書内覧の宣旨を受け、未曾有の外戚関係を構築する。外孫の後一条天皇の摂政になったが、短期間で摂政を若年の長子頼通に譲り、背後でこれを支えた。以降摂関の地位が、外戚関係に関わらず、道長の子孫に継承される前例を開いたと言える。鎌倉時代に入ると、忠通の嫡男基実を祖とする近衛家、その弟の兼実を祖とする九条家、近衛家に分かれて兼平を祖とする鷹司家、九条家より別れ、良実を祖とする二条家、更の一条家に分かれ、五摂家として権勢をふるっていった。

「六波羅探題の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

六波羅
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鎌倉時代、京都の六波羅に置かれた鎌倉幕府の出張機関もしくは機関の長。承久3年(1221)の承久の乱に際し、幕府軍の大将である北条泰時と北条時房は、六波羅の館に拠点を置いた。この六波羅の館は、乱以前から存在した。この六波羅の館は乱以前より存在し北条氏の館と思われる。泰時と時房は乱後も引き続きこの六波羅館に留まり、乱後の処理や公家政権との交渉に当たった。これを持って六波羅探題の成立と見なされている。以後、原則として二人の探題が任命されたが、前期を通じて北条氏によって占められていた。北条氏の中でも泰時の弟重時の極楽寺流など、とりわけ北条嫡流(得宗家)に忠実な庶流から選ばれることがあかった。二名の探題は、その宿所の位置によって各各北方、南方と呼ばれたが、南方が任命されず北方一名のみ在職することもあった。六波羅探題の主な職務は、京都周辺の治安維持と、西国の訴訟審理であった。京都周辺の治安維持は探題家来の中から選ばれ、検断頭人が責任者となり、居と常駐の御家人在京人や京都大番役衆、探題被官が指揮して行われた。訴訟機関としては独立性は低かった。身分的には探題と同格の御家人であり、探題個人とは職制の上では上下関係にあるに過ぎなかった。足利尊氏らの攻撃を受けた際には探題と行動を共にしたのは被官のみであった。

「奥州藤原氏の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

奥州

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奥州藤原氏。平安後期から鎌倉初頭まで、陸奥国平泉(現岩手県平泉町)を拠点に北日本地域に支配した豪族。藤原北家の秀郷流と言われている。藤原経清の子藤原清衡を初代とする・後三年役の後。清衡は継父清原氏の遺領を継ぎ、白河院や摂関家と結んで本姓藤原に改姓し、12世紀初めの平泉に本拠を移し、陸奥国国司との協力の下、日本国に服属したエゾの統括者を意味する「俘囚之上頭」陸奥出羽押領使として奥羽・北海道方面を振るった。清衡の子2代藤原基衡、藤原氏2代父は藤原清衡、母は安部氏女と考えられ、宗任の女とも言われる説もある。陸奥出羽押領使大治3年(1128)父清衡の死後起こった異母兄弟の惟経都の内訌に勝利し、中央政府にも介入も阻止して父の遺領を継ぐ。鳥羽院や摂関家と結んで奥羽両国における勢力を拡大。本州北部・陸奥南部。出羽に対する支配を隔離した。奥州藤原氏の全盛期を3代に渡って藤原秀衡と共に築いた。秀衡との鎮守府将軍・陸奥守に任命され、名実ともに奥羽全域の支配者となった。4代藤原泰衡の文治5年(1189)奥州合戦で源頼朝に攻め落とされた。

 

「古河公方の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

古河公方
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古河公方は室町中期から戦国期にかけて下総国古河を拠点に活動した足利氏小姓である。鎌倉公方に足利成氏が、上杉氏に対立して康正元年(1455)頃古河に入ったことに始まる。成氏氏は梁田氏や重臣たちを近隣に配置し、お山・結城氏ら北関東の大名たちを従えて、
上杉氏と戦いを続け享徳の乱室町後期の関東で展開された内乱。鎌倉公方が古河公方に拠点を移し関東管領の上杉氏派の戦で、20年間近く及んだ。享徳3年(1454)足利氏は上杉氏を遂に成氏氏が関東管領の上杉憲忠しを謀殺したのである。そのことを機に、翌年より本格的戦乱状況に入った。成氏氏はその時の拠点が下総古河を居所として、梁田ら重臣と直臣たち遠山・結城氏ら北関東の大名たちと糾合し、対する上杉方は武蔵五十子を拠点に山内・扇谷両上杉しとその家老ら、さらに越後の上杉氏ら連合して対抗した。結局講和してその地位を保った。成氏の子政氏と、その子も多か高基の子も、大名ららの支持を得て活動したが、高基の子の足利晴氏が北条と結んだためその影響に置かれ、次の義氏は完全に同氏が男子がなく死去すると攻防は消滅するが、娘が家を継承し、近世には喜連川氏と称した。

「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

厳島の戦いの変遷
​​​​​​​「厳島の戦いの変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
弘治元年(1555)安芸・備後方面を支配下に収めた毛利元就に、大内氏謀反で打倒した陶晴賢の勢いに任せ毛利氏に挑発、大内氏の旧臣を引き継ぎ拡大路線で戦線をを広げる安芸の厳島に進駐した陶晴賢軍を急襲して全滅させた戦い。
天文20年(1551)大内義隆を倒した陶晴賢は、内海交通の要所の厳島を支配下に収めた。元就は当初晴賢に協力したが、1554年陶氏と絶ち、安芸西南部の諸城から陶軍を追い占領した。晴賢は1555年9月厳島に上陸、塔岡に本陣を置き、毛利軍が拠守する同島北部の宮尾城を攻撃した。毛利氏は同月晦日夜、暴風雨に乗じて反撃を決行、元就の本隊が島の北部包浦に上陸、山越えして背後から晴賢の本陣を急襲し、小早川隆景の水軍が鳥居沖で晴賢の水軍を破り、退路を断ったので、晴賢は敗走して山中で自刃し、陶軍は完敗した。

「宇都宮氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

宇都宮
「宇都宮氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
中世下野の武家。北関東の名族で知られ、室町時代には「関東八屋形」(やかた)にも数えられた。出自については、下毛野氏、中原氏、藤原氏などの諸説がある。各種系図では、関白藤原道兼の曾孫宗円を祖とする者が多い。鎌倉初期に宇都宮二荒山神社の検校職や伊賀、九州、四国などの地頭職を安堵された。一時勢力拡大を極めた宇都宮公綱も評定衆、引付衆として幕府中枢にも地位を得、所領支配を目的にした「宇都宮家式条」は最も初期に属する武家家法である。ところが家臣の内紛を機に宇都宮家の屋台は崩れ、収拾、再興がままならぬ状況に打つ手はなかった。しかし学芸の家柄としても優れ、特に和歌では「宇都宮歌壇」という一大歌壇を形成した。「新〇和歌集」は宇都宮国綱功績が大きい、又、弓道の武芸でもその名を馳せたが、豊臣秀吉の小田原攻めに佐竹氏らとともに参陣したが、しかし、慶長2年(1597)突如、所領を理不尽にも秀吉から改易で没収され滅亡した。

「京都古社寺探訪」“月読神社“(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、京都府京都市西京区松室山添町にある神社。式内社(名神大社

つ月読み8「京都古社寺探訪」“月読神社“(つきよみじんじゃ、月讀神社)は、京都府京都市西京区松室山添町にある神社。式内社(名神大社)で、現在は松尾大社摂社。「松尾七社」の一社。松尾大社の南400メートルの地に鎮座する。現在の祭神は次の1柱。月読尊(つきよみのみこと)一般にツクヨミ(月読尊)は、『古事記』『日本書紀』の神話においてアマテラス(天照大神)の兄弟神として知られるが、月読神社祭神の神格はその記紀神話とは別の伝承で伝えられた月神であると考えられている。『日本書紀』顕宗天皇3年2月条における月読神社の創建伝承では、高皇産霊(タカミムスビ)を祖とする「月神」は壱岐県主(いきのあがたぬし)に奉斎されたとある。また『先代旧事本紀』では、「天月神命」の神名で壱岐県主祖と見える。これらから、当社祭神の神格は海人の壱岐氏(いきうじ)によって祀られた月神(海の干満を司る神)と推定される。また別の神格として、壱岐氏が卜部を輩出したことから亀卜の神とする説もある。関連して、『日本書紀』顕宗天皇3年4月条では対馬下県直が奉斎した「日神」の記載があるが、こちらもまたアマテラスとは異なる太陽信仰を出自とする神とされる。同条では、月神と同様にこの日神も高皇産霊を祖とすると記されている。『日本書紀』よれば、顕宗天皇(第23代)3年に任那への使者の阿閉臣事代(あへのおみことしろ)に月神から神託があり、社地を求められた。朝廷はこの月神に対して山背国(山城国)葛野郡の「歌荒樔田(うたあらすだ)」の地を奉り、その祠を壱岐県主祖の押見宿禰が奉斎したという。以上の記事が当社の創建を指すと一般に考えられている。その後『日本文徳天皇実録』によれば、斉衡3年(856年)に水害の危険を避けるため月読社は「松尾之南山」に遷座されたといい、以後現在まで当地に鎮座するとされる。このほか『山城国風土記』逸文によれば、月読尊が保食神のもとを訪れた際、その地にあった桂の木に憑りついたといい、「桂」の地名はこれに始まるという説話が記されている。

「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

義民「義民の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「義民とは義を実行した民を意味するが、一般的に百姓一揆の指導者の内、後世英雄物語が作られ、地蔵尊や神社に、あるいは石碑を立てて検証されている人々を指す。義人ともいう。18世紀後半に百姓一揆の増大を受けて全国的に検証活動が行われた。検証活動の目的は過去の一揆で獲得した先例を確認して行くことにあるが、同時にそれを獲得したのが村役人である義民の行為であることを強調し、打毀しに象徴される村落内の対立激化による秩序の解体を、村役人を中心に立て直す役割を果たした。嘉永4年(1851)佐倉惣五郎の物語である「東山桜壮子」が江戸で上演され大ヒットし、惣五郎は義民と呼ばれた。この物語は各地に急速に流布され、各地の一揆指導者も義民と呼ばれるようになり、また物語は惣五郎に同化した。また幕末から明治初年の一揆は、惣五郎ら義民の影響を受けたものが少なくない。近代に入っても義民顕彰活動は展開され、特に自由民権運動には各地で活発に行われた。

「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

後北条氏
「後北条氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
戦国時代の武家。北条早雲、伊勢宗瑞を祖として、氏綱、氏康、氏政、氏直と5代にわたり相模小田原城(神奈川県小田原市)を本城として関東一円に勢力を張った。早雲は今川家の家督相続をめぐる内紛を解決し、駿河興国寺城主となり、その後、堀越公方を追って伊豆を収め、ついに小田原を奪取して相模に進出、永正13年(1516)三浦氏を滅ぼし、相模一円を手中に収めた。氏綱の代には姓を伊勢から北条に改め、鎌倉幕府執権北条氏の後継と言う政治的立場を明らかにした。早雲以下5代の北条氏を鎌倉北条氏と区別し、小田原北条氏、後北条と呼ぶ氏綱以降氏康、氏政、氏直と北条氏は領国の拡大と領国経営に努め、八王子、江戸、鉢形などの支城を築いていった。5代100年にわたり伊豆及び関東に君臨したが、天正18年(1590)秀吉の小田原攻めに敗れ滅亡した。

「戦国九州覇権の興亡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

戦国九州覇権の興亡 

 

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戦国の世に有って、九州には島津氏と大友氏の両者九州の盟主として対峙し続ける中、「九州に両雄並び立たず」の諺の通り、豊薩合戦が天正15年に勃発、これを「天正の役」と言う。

 父宗麟から引き継いだ義統は戸次川の戦で味方の離反、重臣の寝返りで大敗を期した。信長を絡んで事態が動いたが、信長の横死で秀吉が九州勢伐に乗り出し複雑化していった。

島津軍が大友失墜に総力戦で大友最後の砦、岩屋城に猛攻を懸けたが、予想以上の抵抗に遭い多大な損害を受けて島津軍は終結させたが、その後の九州制覇に後れを取ってしまった。島津軍は筑前・肥前に軍を進め九州制覇かかに見えた時に、秀吉は島津氏に向かって軍を差し向けることにんった。

大友宗麟に毛利元輝に国分令の執行を命令し、検視として黒田孝高・宮城堅甫・安国寺恵瓊に任じた。その他、吉川晴元・小早川隆景・仙石秀久・長曾我部元親らに渡海を命じ、毛利軍に先導役を命じ、十河・長曾我部・豊後に向かって大友軍と合流し進軍した。九州に乗り込んだ黒田孝高は島津方面の武将に調略を行った。

一方島津軍も豊後に兵を進めた。吉川元春は島津方の宮山城を攻略、次々と島津軍拠点に攻撃をかけ、一方秀吉は諸国より20万の兵と30万人の一年分の兵糧米を集めるように命じた。各戦場で激戦が繰り広げられ、島津軍も反撃をかけて秀吉軍の予想以上の損害を見て、宗麟は秀吉直々の出馬を促した。

3月1日、秀吉自身も出陣し、秀吉軍の総力戦となった。秀吉は悠然と山陽道を下り、事の推移を見守った。島津軍は徐々に後退、秀吉は築後に到着、秀吉の大軍の到着に、島津義久は豊臣秀長に和睦を申し込んだ。鹿児島に戻った義久は出家して秀吉に降伏し、一命は赦免された。島津には侵略した領地は没収され、義久に薩摩一国と義弘に大隅と日向の一部を安堵された。

他の侵略地は秀吉に従軍した大名に戦果功労を鑑み国分の褒賞分置を不満の出ないように安堵させて九州征伐と統一をさせた。

 

 

「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

柳沢氏g
「柳沢氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」
江戸時代の普代大名。戦国時代は甲斐武田氏に仕え、後に徳川氏の家臣となる。柳沢安忠(1602~1687)のとき、3代将軍家光の弟駿河大納言徳川忠長付となる。忠長の改易により浪人、やがて上野国舘林城主綱吉に仕えた。その子柳沢吉保は、綱吉の将軍家相続に伴って幕臣になり、側用人、老中上座、甲府城主(15万石余)にまでなり、松平姓を名乗ることを許される。子の柳沢吉里(1687~1745)のときに大和国郡山藩主となり、幕末まで存続。帝鑑間詰。明治維新後は柳沢姓に復し、伯爵を授けられた。別に吉保の四男経隆は越後黒川藩主、五男の時陸も越後国三日市藩主となって分家し(ともに1万石)幕末に至った。2家とも帝鑑間詰。維新後は子爵だった。犬将軍徳川綱吉と柳沢吉保の特別な側用人で江戸幕府の政治が行われ、生類憐みの令や功罪、混在した政治が執り行われた。

「前九年・後三年の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

前九年​​​​​​​「前九年・後三年の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
前九年・後三年の役は平安後期に陸奥国で起こった俘囚(ふしゅう)長安倍氏の反乱。この反乱に関与して収拾に当たったのが源頼義と嫡男の義家(八幡太郎)である。安倍氏は服属した蝦夷の居住地である臆六郡(陸奥国衣川関以北の胆沢・江差・和賀・稗貫・紫波・岩手の諸郡)の郡司であったが、頼良の頃六郡以南の国司支配地にも進出した。子のために永承六年(一〇五一)陸奥国守藤原登任は秋田城介平重成とともに頼良を攻撃するが逆に大敗を被った。そこで朝廷の武名名高い源頼義を陸奥守に任命をする一方、上東門院彰子の重病治癒を祈願による大赦で頼良を許したために、頼良は頼義に服属し安倍頼時と改名した。頼義の任期満了の直前の天喜4年(10569権守藤原説貞の子息らが襲撃を受けた際、頼義は説貞の申し出に犯人をより頼時の嫡子安倍貞任と断定し、安部氏追討を命じた。この事件は頼義、もしくは在庁官人の陰謀とする説が多い。しかし在庁官人の相互の対立から藤原経清が安倍側に走るなど、頼義側の足並みがそろわず、翌年7月、頼時を討ったものの、11月に黄海の戦で貞任に惨敗しる。以降安部氏は陸奥を支配し、国内の官物の大半を奪取した。頼義は再三朝廷に諸国の武士・兵糧の支援を要請したが実現せず、雌伏を余儀なくされた。頼義の重任の任期が終わる康平5年(1062)出羽の俘囚清原光頼・武則が頼義の勧誘に応じて武則は一万騎を率いて来援した。これを迎えた頼義の軍は3000騎であったという。以降、頼義武則側をは安部氏を圧倒し御厨川の柵で貞任・経清を討ち取った。乱後は、朝廷から頼義は伊予守、長子義家には出羽守、武則には従五位上鎮守府将軍に任じられた。清原氏は奥羽に勢力を伸長させた。
後三年の役は、平安後期奥部地方で発生した戦乱。永保3年(1083)に豪族清原氏の嫡流真衡が養子業衡の婚儀を行おうとした際に、真衡の驕慢な態度に怒った一族は吉彦秀武が挙兵し、さらに真衡の異母弟にあたる清原家衡や藤原経清の子で家衡も呼応した。背景には、嫡流の地位強化に対する一族の不満があった。同年陸奥として赴任してきた源義家は事件に介入、真衡を支援して清衡・家衡を破ったが、真衡が急死したために両社の調停にし、奥六郡の内胆沢・江刺・和賀の3郡を清衡に、残る3郡を稗貫・紫波・岩手の3郡を家衡に与えた。しかし応徳2年(1085)家衡が清衡を襲撃したために、義家は清衡を支援し、家衡を出羽の沼柵に攻め込んだが、冬の寒さもあって苦戦に陥った。家衡は叔父武衡の参戦を得て金沢柵に移って抵抗したが、義家も弟義光の来援もあって、寛治元(1087)兵糧攻めで金沢柵を攻略、家衡・武衡を討伐した。しかし朝廷は義家に対して追討官符を下さず私闘とみなし恩賞を与えなかった。これは義家の勢力強大化を恐れた抑圧と思われ、義家も朝廷の停止命令を無視した行動が見られたためだった。結果義家が帰京した後に清衡は奥部の実質的な支配者になり、その子孫が奥州藤原の一大勢力を創り出すことになった。

「西国四十九薬師巡り」西明寺・紅葉の名所で知られる古東三山の北にある。滋賀県は犬上郡甲良町

西明寺
「西国四十九薬師巡り」西明寺・紅葉の名所で知られる古東三山の北にある。滋賀県は犬上郡甲良町にある西明寺は天台宗で本尊は薬師如来、西国薬師32番札所である。寺伝によれば平安初期、三修上人が創建という。修は修験道の霊山として伊吹山の開山上人と伝えられ伝説化された行者である。また伝承によれば湖岸の対岸から三修は紫雲のたなびくのを見て不思議に思い、そこで神通力で一機に湖面を渡り西明寺のある山中で紫の光射すところで三修が祈念をすると薬師如来が出現し、その姿を刻んで祀ったのが寺の始まりで、その場所を「池寺」と称した。
この伝説に基づき承和三年(836)仁明天皇の勅願寺となった。その後寺領が寄進され諸堂が建立され「西明寺」と寺号は西の方に紫の光が射した由来によるものである。
元気二年(1571)比叡山延暦寺の焼打ちによって織田信長は近江の国の天台宗の傘下に有った寺院を焼き払った。
往時寺坊三百余りの祈祷道場として栄えた西明寺は焦土化と化した。その後德川家の庇護を受けて徐々に復古がなされた。


「明王・諸天の功徳」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

明王諸天
「明王・諸天の功徳」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
仏教界では諸仏を四部に分けられる。釈迦如来や阿弥陀如来は悟りを開いた仏様として最高位にある。 次に菩薩尊は如来物に成るために修行中にある仏さんである。一番馴染み深い観音菩薩さんや地蔵菩薩など人間に近く親しみやすい仏さんである。 次に、明王さんと諸天善神である。不動明王(ふどうみょうおう)は、仏教の信仰対象であり、密教特有の尊格である明王の一尊。大日如来の化身とも言われる。また、五大明王の中心となる明王でもある。真言宗をはじめ、天台宗、禅宗、日蓮宗等の日本仏教の諸派および修験道で、庶民の願いの願掛けに、信仰されている。五大明王の一員である、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王らと共に祀られる。
明王は密教の根本尊である大日如来の化身であると見なされている。「お不動さん」の名で親しまれ、大日大聖不動明王、無動明王、無動尊、不動尊などとも呼ばれる。アジアの仏教圏の中でも特に日本において根強い信仰を得ており、造像例も多い。真言宗では大日如来の脇侍として、天台宗では在家の本尊として置かれる事もある。縁日は毎月28日である。明王(みょうおう、)は、密教における尊格及び称号で、如来の変化身ともされる。呪文の王者)を意味する。 次に「諸天善神」は如来や菩薩を守護するインドのヒンドウー教やバラモン教に影響受けた神々が、仏教に組み込まれて天部の人間に近い立場で救済する。「諸天善神」を「諸法善神」(しょほうぜんしん)などともいう。梵天や帝釈天、また須弥山の四方を護る四天王や金剛力士、八部衆、十二神将、二十八部衆、八大竜王、さらに鬼神ともいわれる阿修羅や鬼子母神、十羅刹女、八大夜叉大将、堅牢地神、風神雷神など、さらには本地垂迹の神や権現、雨宝童子など、すべての神々は仏法を守護する神として護法善神に含まれると考えられる。
これらは一般的に守護神と呼ばれるが、特に仏法および仏教徒を守護する神を護法善神、護法神などと呼ぶ。これらは、バラモン教およびヒンドゥー教の神々では人々に危害を加え、悪行を重ねた諸天は如来に諭されて改心し、仏教に組み込まれて、仏法を守護すると考えられるようになったものである。
当初、インドでは梵天と帝釈天の二神が仏法を守護すると考えられていたが、バラモン教(のちのヒンドゥー教)の最高神である梵天が含まれたことで、梵天以下のさまざまな神々も包摂され仏法を守護すると考えられるようになった。仏教では、六道の最高を天上道(あるいは天上界、天界、天部とも)とするが、これは簡単にいえば神の世界にあたる。しかし仏教では天上道といえども、まだ悟りを得ない世界であり、六道として輪廻する世界の一つにすぎないとされる。

「神仏霊場巡り」真正極楽寺・京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう)と呼ばれる

し真正極楽寺l「神仏霊場巡り」真正極楽寺・京都市左京区にある天台宗の寺院で通称・真如堂(しんにょどう)と呼ばれる。山号は鈴聲山(れいしょうざん)。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は戒算である。永観2年(984年)、比叡山の僧である戒算が夢告により、比叡山常行堂の本尊阿弥陀如来を東三条院詮子(一条天皇生母)の離宮に安置したのが始まりである(『真如堂縁起』)。
正暦三年(992年)一条天皇の勅許を得て本堂が創建されたという。不断念仏の道場として念仏行者や庶民、特に女性の信仰を得てきた。
しかし応仁の乱をはじめ度重なる火災により堂塔は焼失した。その後足利将軍家や豊臣秀吉により京都市内の何カ所かを転々としたのち、元禄六年(1693年)、現在の場所に再建された。
本尊の阿弥陀如来は「頷きの阿弥陀」とも呼ばれており、円仁(慈覚大師)が「修行者を守護して下され」と祈ると首を横に振り、「衆生、特に女性をお救い下され」と祈ると頷いた、という伝説がある。
三井家の菩提寺で三井高利ら三井一族の墓石が並んでいる。お十夜(浄土宗の重要な仏教行事)は、ここが発祥である。
近年は紅葉の名所として人気が高まっており、紅葉期は多くの人が訪れるが、普段は静かな寺院である。

「ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

ゴローニヤ事件と高田屋嘉兵衛

 

「ゴローニン事件と高田屋嘉兵衛」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOKWALKER

「ゴロウニン日本幽囚記」で江戸末期の日本とロシアの領土問題と開港交渉と事件が詳しく記されたものである。約2年3か月間、日本に抑留された事件である。ディアナ号副艦長のピョートル・リコルドロシア語版)と、彼に拿捕そしてカムチャツカへ連行された高田屋嘉兵衛の尽力により、事件解決が図られた。1811年(文化8)~1813年箱館、松前でで幽囚生活を送ったロシアのデイアナ郷館長ゴロウニン海軍少佐の著。帰国後の1816年に刊行。蘭学者の馬場佐十郎(1787~1822)足立左内(信顕1769~1822)らにロシア語、数学を伝授したことや日本の諸事情及び日本人論も含む名著。最初の翻訳は、1821年(文政4)幕名により馬場佐十郎訳、高橋景保校、翌年馬場死後は杉田玄白、青地林宗が翻訳に加わった「遭厄日本紀事」に描かれている。

 


「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

 前田

 

「前田氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOKWAL

①江戸時代の外様大名家。祖先は尾張国愛知郡荒子城主。前田利家が織田信長に取りたてられ、豊臣秀吉の五大老となり徳川家康と並び立ったが、その後徳川幕府の下で加賀・能登・越中3国100万石余の外様大名として廃藩置県まで14代続いた。居城は加賀国金沢。利家の時から菅原姓を称したが定姓は未詳。秀吉から羽柴姓・豊臣姓を、徳川氏から松平姓が許され、利家は極官、官位は正三位、前田利長従三位、斉泰正三位で他は正四位下であった。元和2年(1616)加賀藩初代の五男利孝が上野国甘楽軍に入府、三代利常の隠居時に次男の利次に越中国一〇万石、三男利治に加賀国江沼郡に分知、江戸城詰め間は大広間、元禄二年(1689)から御三家並みの白書院。家紋は剣梅鉢。②加賀藩三代利常の次男前田利次寛永一六年(1639)越中国に10万石を分知されて富山城主となり、富山藩成立、廃藩置県まで13代続いた。官位は極官は代々十四位下、江戸城詰間は柳の間、従四位下に進めば大広間であった。③加賀藩3代利常の3男前田利治(1618~1660)寛永16年(1639)可が酷江沼郡に、7万石分知され、同郡大聖寺町に館を持ち大聖寺藩が成立。廃藩置県まで14代続いた。④加賀藩初代利家の5男前田利孝(1594~1637)は徳川氏に仕え、元和2年(1616)上野国甘楽郡に1万石余を領知として七日市に陣屋を構え、廃藩置県まで12代続いた。官位は十五位下であった。

 

 

 

 

 

 

「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

日本人の釈迦仏と阿弥陀仏

 

「日本人の釈迦仏と阿弥陀仏」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOKWALKER

日本歴史の三大要因の一つに仏教伝来がある。6世紀半ば欽明天皇の時代に百済から仏教が伝わったと言うのが一般的である。仏教は紀元前5世紀頃インドの仏陀に端を発し、中国、朝鮮半島などを経て伝わった。インド中国と経て来る内にバラモン教に影響を受けた諸仏なども加わって、多種多様の諸仏が形成されて伝わった。中でも、実在したと言われる釈尊(仏陀)と大乗仏教で重要な尊像の一つの阿弥陀如来の無量寿如来・無量光如来という、西方極楽浄土に有って衆生を救済するという阿弥陀如来は釈迦如来に次いで古く形成され、中国に伝わり、やがて日本に伝わって我が国の仏教に大きな影響を与えた。釈迦如来の法華経を元に影影響を受けた日蓮宗や法華宗に、釈尊から何代も伝承された達磨によって禅宗が形成確立された。釈迦仏と阿弥陀仏がインドでどう形成され、小乗仏教として、又大乗仏教として、中国で熟成され、仏教解釈にその歴史を見ることが出来る。やがて日本にアジア全域に伝播され、日本では官寺から一般民衆の信仰として、宗派として大きな二つの流れを作った。釈迦仏からは、日蓮宗、法華宗系、禅宗系から臨済宗・曹洞宗などが形成されていった。また阿弥陀仏系の宗派からは浄土宗。真宗、時宗、融通念仏宗が立宗開化させた。釈迦仏と阿弥陀仏のインド誕生から、中国で熟成された経歴を考察しつつ、日本人に支持され精神的支柱としてあり続けた意義と歴史に及ぼした影響を考えてみた。

「歴史の回想・賤ケ岳の戦」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

賤ケ岳の戦

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賤ケ岳の戦い(1583年)天正11年4月、羽柴秀吉が柴田勝家を破った戦い。秀吉は山崎の戦で明智光秀を滅し清洲会議によって織田信長の孫の(三法師)を後継者に据えたが、宿老筆頭格にあたる勝家は、信長の三男(信孝)を擁してこれに対抗した。秀吉は1582年10月に、他の宿老えお排除する形で信長の葬儀を盛大に行い、さらに越前国北ノ庄に居城する勝家が雪で行動が困難な時期を見計らって美濃から近江に兵を進め、信孝を孤立させた。勝家はこれを助けるために南下し、賤ケ岳から柳ケ瀬で合戦が行われたが敗退し、居城の北ノ庄で自殺した。

「歴史の回想・安政の大獄」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

安政の大獄

 

「歴史の回想・安政の大獄」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOKWALKER

安政の大獄は安政5年(1858)9月から本格的に開始された幕府井伊直弼政権による反対派への大弾圧事件。当時、中央政局では、日米修好通商条約締結に賛成する開国派とそれに反対する鎖攘派とが、また、13代将軍家定の後継として一橋家当主徳川慶喜をさし海防体制の構築に積極的な一橋派と紀州藩主徳川慶福を戴こうとする保守的な南紀派とが対立していた(将軍継嗣問題)。南紀派、譜代大名の筆頭彦根藩主井伊直弼を同年4月23日大老に擁立し、幕閣内の主導権確立した。直弼は5月6日、勘定奉行川路聖謨、大目付土岐頼旨を左遷したい国の端緒を開きつつも、勅諚に沿って条約締結に関して諸大名に再諮問するなど「叡慮」を人心収攬の基本とした政策を行ったが、翌6月19日(1858年7月29日)アメリカの圧力に無断違勅調印をした。同月24日の一橋派親藩大名水戸藩前藩主徳川斉昭、同藩主徳川慶篤、名古屋藩主徳川義恕、徳川慶喜、福井藩主松平慶永が不時登城し違勅調印を詰責したが、井伊政権はこれを切り抜け、翌25日に、継嗣を慶福に決定し、家定の危篤を受けて、7月5日、斉昭を急度慎、慶恕、慶永を隠居.急度慎、慶篤、慶喜を登城停止に処し反撃を封じた。これに対して、一橋派や尊攘派志士は、8月8日戊午の密勅(違勅調印と斉昭らの処罰に関し井伊政権を非難し、幕閣と御三家ら諸大名の軍議を命じたもの)を水戸藩へ、同10日幕府に降下させるとともに南紀派の巨頭関白九条尚忠の代わりに一橋派の左大臣近衛忠煕が内覧の地位につき朝政を掌握する形成をとった。井伊政権は、慶福への将軍宣下実現、条約勅許獲得、密勅の処理を目的として上京中老中間部詮勝と京都所司代酒井忠義の指揮の下、9月5日に近藤茂左衛門逮捕に踏み切り京都で公家家臣、志士、一橋派藩士を多数逮捕したい国を本格化させ江戸などでも多数検挙した。このような実力行使にり尚忠を内覧に復帰させ、1859年2月から4月にかけて一橋派公家前関白鷹司政通、近衛忠煕、右大臣鷹輔煕、前内大臣三条実万を辞官・落飾・慎に、尊融法王を慎に処した。同年8月から10月にかけて逮捕者断罪が行われ、水戸藩家老安嶋帯刀を切腹、水戸藩士士鵜飼幸吉を獄門、福井藩藩士橋本左内、長州藩吉田松陰、頼三郎樹三郎らを死罪に処したほか、遠島、追放など100名余りに達した。また、一橋派大名も1858年10月土佐藩主山内豊信の隠居慎などが続き、翌年8月には、斉昭は国許永蟄居、慶喜は隠居慎に処罰された。これら筆語に表しがたい強硬策の非情さと理不尽に反発した志士たちによる「桜田門外の変」で井伊直弼政権は崩壊した。処罰され生き残った者は宥免と名誉は回復され復帰し時代は大きく変わっていった。

「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

結城 

 

「結城氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOKWAL

「中世下総国の武家。下野国の在庁官人小山政光の三男結城朝光が寿永2年(1183)源義広の乱で戦功をあげて下総国結城郡地頭職を獲得、郡北部に入部し結城氏を名乗った。結城朝広・結城広綱の代まで平方氏、寒河氏、山河氏、網戸氏、白河氏、大内氏らの各氏を分出、一族ともに発展してきた。鎌倉後期の結城時広、結城貞広、結城朝祐は御家人身分を維持したまま北条得宗家の被官となり、鎌倉幕府滅亡後は足利氏に従って14世紀後半に結城直光(1329~1395)が安房守護に就任。その子結城基光(1349~1430)は40数年間下野守護として君臨、鎌倉府の一方の中心となった。永享12年(1440)結城氏朝は基光の路線を継承して持氏の遺児足利安王丸らを擁立、1年余に及ぶ籠城戦のすえ、室町幕府軍・上杉軍に敗れ戦死したが、(結城合戦)末子結城成朝(1439~1463)が持氏の遺児足利成氏の復帰と共に結城氏を再興。結城政朝(1479~1545)の時に家中統制に成功し宇都宮氏を破って勢力を伸ばし、結城政勝(1504~1559)は小田氏に勝利したほか、城下町の整備や結城家法度制定などに尽力。結城晴朝は上信氏、小田原北条氏の狭間で家名を保って豊臣秀吉から領地安堵を受けた。慶長6年」(1601)結城秀康(徳川家康の次男)は関ヶ原の戦功で越前に転封、その5男結城直基が晴朝の養子となって結城氏を継いだ。

 

 

 

 

 

 

「北条得宗家の変遷」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

北条得宗家の変遷
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「北条執権政治」鎌倉時代,源氏滅後130年間執権北条氏が幕府の実権を握り幕政を左右した体制。源頼朝の死後,北条時政は娘の政子とともに実権の掌握を意図し,将軍頼家の外祖父比企能員を建仁3(1203)に滅亡させ,実朝を将軍として,政所別当となったが,嫡子義時と対立して元久2年(1205)失脚した。これに代って義時が政所別当となり,建保1年 (1213)には和田義盛を滅ぼして侍所別当をも兼任し幕府の実権を握った。同7年,実朝が暗殺されて源氏の正統が絶え,承久の乱 (1221) にも圧倒的勝利で三上皇を隠岐、佐渡、土佐に流して逆賊となって権力をほしいままにした。義時の死後,執権職は嫡子の泰時が継ぎ,以後執権職は北条氏によって世襲されるようになった。泰時は,執権の補佐役として連署の制を始め,嘉禄1年 (1225) 年には評定衆を新設して,重要政務を評議させ,貞永1年 (1232)『御成敗式目』を制定し,執権政治の基礎を固めた。泰時の死後,執権職は経時が引継ぎ,経時がわずか4年で病死したのち,時頼が跡を継いだが,時頼は,幕府中枢機関を北条氏の嫡統の当主である得宗 (とくそう) を中心とする北条氏一門で独占することを意図した。寛元4年(1246)北条時頼が執権となったころから執権政治は変質し始める。時頼は、北条一門の不満分子である名越氏、有力御家人三浦氏、摂家将軍頼経・頼嗣ら反対勢力を次々に排除した。さらに院政を行う上皇(治天(ちてん)の君(きみ))や天皇の決定、摂関の人選をはじめ、朝廷の政治にも干渉した。時頼は執権を退いてのちも得宗として実権を握り、幕府権力の根源は執権よりも得宗に置かれるようになった。元弘3年・正慶2年(1333)後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆国の船上山で挙兵すると、幕府は西国の倒幕勢力を鎮圧するため、北条一族の名越高家と御家人の筆頭である下野国の御家人足利高氏(尊氏)を京都へ派遣する。4月に高家は赤松則村(円心)の軍に討たれ、高氏は後醍醐天皇方に寝返って、5月7日に六波羅探題を攻略。同月8日、関東では上野国の御家人新田義貞が挙兵し、幕府軍を連破して鎌倉へ進撃する。18日に新田軍が鎌倉へ侵攻すると、22日に高時は北条家菩提寺の葛西ケ谷東勝寺へ退き、北条一族や家臣らとともに自刃した。享年30(満29歳)。

二十二社めぐり・「京都古社寺探訪」梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社。式内社(名神大社)、二十二社(下八社)の一社で

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二十二社めぐり・「京都古社寺探訪」梅宮大社(うめのみやたいしゃ)は、京都府京都市右京区梅津フケノ川町にある神社式内社名神大社)、二十二社(下八社)の一社で、旧社格官幣中社。現在は神社本庁に属さない単立神社。旧称は「梅宮神社」。神紋は「」。京都市西部の梅津の地に鎮座する、四姓(源平藤橘)の1つ橘氏氏社として知られる神社である。元々は奈良時代に南方の綴喜郡井手町付近に創祀されたといわれ、のち平安時代前期に橘嘉智子(檀林皇后)によって現在地に遷座したとされる。現在地への遷座に関わった橘嘉智子は、嵯峨天皇(第52代)の皇后として仁明天皇(第54代)を出産し、外戚としての橘氏の中興に貢献した人物である。社伝では、橘嘉智子には子がなかったが梅宮神に祈願したことで皇子を授かったといい、その伝承に因んで現在も子授け・安産の神として信仰される。また祭神の名から酒造の神としても信仰されており、酒にまつわる多くの神事が現在も行われている。そのほか、梅宮大社の例祭は「梅宮祭」として古くから知られ、特に平安時代当時には古雅な祭として有名であった。現在の社殿のうち、本殿・拝殿・楼門・境内社若宮社・境内社護王社の5棟は江戸時代の造営であり、京都府登録文化財に登録されている。現在の祭神は、次の本殿4柱・相殿4柱の計8柱。相殿4柱は仁寿年間(851年-854年)の合祀という。本殿・酒解神 - 大山祇神(おおやまづみのかみ)にあてられ、酒造の守護神とされる。大若子神 - 瓊々杵尊にあてられる。小若子神 - 彦火火出見尊にあてられる。酒解子神 - 木花咲耶姫命にあてられる。梅宮大社で本殿に祀られる酒解神を始め4柱は、いずれも梅宮大社特有の神である。神名の初見は酒解神・大若子神・小若子神は承和3年(836年)、酒解子神は承和10年(843年[原 2]になる。特に主神である酒解神については、「サカトケ」の字義を「辟解」として悪霊を祓う神とする説、「堺解」として境界に居て悪霊を鎮める神とする説が挙げられるが不詳。また神格としては、橘氏が奉斎したことから橘氏の祖神とする説のほか、大山祇神にあてる説があるが、こちらも明らかではない。後者の説として、『大和豊秋津島卜定記』では酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神をそれぞれ大山祇神木花咲耶姫命瓊々杵尊彦火火出見尊にあてており、現在の梅宮大社ではこの説を採用している[4]。なお『延喜式神名帳では、山城国乙訓郡に「自玉手祭来酒解神社名神大元名山埼社」として「酒解神」を祀る式内社の記載がある。この酒解神社は、。その社名は、神名帳の記載によると元々あった「山埼社」に「玉手」から酒解神が勧請されたことを意味するが、「玉手」の場所やこの神社と橘氏ないし梅宮社との関係は明らかでない。梅宮大社の創建は旧記等が散逸しているため詳細には明らかでないが、神社側では由緒を次のように伝える。まず奈良時代県犬養三千代(橘三千代、橘諸兄母)によって山城国相楽郡井手庄に祀られたのが創祀であるとし、その子の橘諸兄には氏神として祀られたという。さらに天平宝字年間(757年-765年)に三千代の子の光明皇后牟漏女王藤原武智麻呂夫人)によって奈良に移されたのち、木津川上流の桛山(かせやま)を経て、平安時代始めに檀林皇后(橘嘉智子)によって現在地に遷祀されたという。一方、平安時代末期の『伊呂波字類抄』でも梅宮社創祀に関する記述が見える。同抄では、檀林皇后がその氏神を円堤寺、すなわち橘諸兄が創建した氏寺の井手寺に祀ったことに由来するとする。この文では付記として、この神が元々は県犬養三千代によって祀られ、次いで子の光明皇后と牟漏女王によって「洛隅内頭」に、その後「相楽郡堤山」の地に遷祭されたとする。そして平安時代に入って仁明天皇の時、井手寺に祀られていた神が天皇外家神(外戚神)ながら大幣に預からなかったことに怒りを示したため、皇后自らによって「葛野川頭」に遷祀されたという。なお、国史でも『日本三代実録元慶3年条において、やはり梅宮社が檀林皇后由来である旨が記されている。以後の梅宮大社は橘氏から氏社として崇敬されたほか、県犬養三千代が藤原不比等夫人でもあった関係から藤原氏からも崇敬されたという。国史では、承和3年(836年)に「山城国葛野郡梅宮社」の祭神である酒解神・大若子神・小若子神の3神に神階叙位の記事が見え、遅れて承和10年(843年)に酒解子神の神階叙位が確認される。その後これら4神の神階は重ねて昇叙され、貞観17年(875年)に従三位、延喜11年(911年)には正三位に昇った。延長5年(927年)成立の『延喜式神名帳では山城国葛野郡に「梅宮坐神四社並名神大月次新嘗」として、名神大社に列するとともに月次祭新嘗祭幣帛に預かった旨が記載されている。『二十二社註式』によれば、平安時代中期には名社として二十二社の1つに列しており、治承4年(1180年)には正一位が授けられたという。また、平安時代には年2回の梅宮祭勅祭として行われたことが知られる。永万元年(1165年)の「神祇官諸社年貢注文」では松尾社・稲荷社など山城国の5社のうちに梅宮社が含まれており、藁200束・薪200束を梅宮社から神祇官に調進する規定であった。以後は橘氏衰退に伴い社勢も衰えたが、中世も祭祀は続いていた。しかしながら、文明6年(1474年)には戦乱に巻き込まれ社殿を焼失している。近世には朱印地として59石余が与えられ、元禄13年(1700年)には現在に見る社殿が造営された。明治維新後、明治4年(1871年)に「梅宮神社」として近代社格制度において官幣中社に列した。戦後は昭和26年(1951年)に社名を現在の「梅宮大社」と改称し、現在に至っている。

「本多氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

本多
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本多氏の出自は、三河国の国人、江戸時代譜代大名・旗本家。左大臣藤原顕光11代目の助秀が豊後国本多に住してより本多を称し、12代助定の時足利尊氏に仕えたという。13代助政のあと定通家と定正家に分かれ、それぞれ三河で松平宗家に仕えた。歴史上著名な人物としては、定通家からは本多正信・本多忠勝が、定正家からは「徳川四天王」の一人とされた父子が出ている。
正信の家は、元和8年(1622)正純の改易で絶えたが、本多氏全体としては、江戸時代には多くの大名・旗本の家に分かれた。大名として明治に至ったのは、定通家からは、三河国岡崎藩本多氏、正信を祖とする播磨国山崎藩本多氏、忠以を祖とする陸奥国泉藩本多氏、正時を祖とする近江国膳所藩本多氏、忠恒を祖とする伊勢国神戸藩本多氏、忠相を祖とする三河国西端藩本多氏の大名家6家が、定正家からは、正重を祖とする信濃国飯山藩本多氏の大名家二家が成立した。また、定正家には加賀藩家老本多氏、福井藩家老の本多氏がいる。

「幕藩大名家の存亡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

幕藩大名家の存亡
「幕藩大名家の存亡」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
大名の国替えや失脚で消滅は珍しくなく、入封・転封・改易(消滅)・蟄居・大名お預けと幕閣からの取り潰しの陰謀、藩政の失態、一揆勃発、内紛、お家騒動などで毒殺されたり、監禁されたり決して安堵、安泰ではなかった。
  大名の転封ならまだ良い方、減封と言って領地を減らされたり、改易と言って「お取り潰し」で蟄居・大名預かり、流刑で終えた大名などや、生涯預けらえた大名の部屋住まいで終える例は少なくない。 幕閣はちょっとした失政で斬首された大名も少なくい、藩政の不始末や財政難で沙汰が下る。藩政の失態乗じて外様大名は取り潰しの憂き目に遭った旧豊臣家臣は八十八大名を数え、江戸時代に改易された大名は百七十五大名余りを数える。
悪意なく城の改築や幕府に届けることを怠って後継者を定めた場合、跡目争いで藩主を座敷牢に押込み、後継騒動起こしたお家騒動も法度で取り潰しになる。
 藩政の失敗で財政難で農民に年貢微増で一揆となって藩が乱れたら大名も切腹や改易は免れない。 家臣の対立は幕府の巡検視によって発見され制裁を受ける、藩主の乱行・体たらくには幕府の目が注がれている。 意図的に幕閣は無理難題の普請を申し付け、莫大な借金を負わせて破たんさせ改易・転封をさせる。 幕府に隙を見せれば付け込まれ僻地に転封・減封を命じられる。江戸幕府約二百六十年の内、大政奉還の明治まで存続した大名はごくまれである。

「後白河院政の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

後白河の院政の攻防
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平安時代の保元の乱から平治の乱の院政の攻防を描いております。
長き白河院の院政に孫の鳥羽天皇は抵抗、白河院の死去後、待賢門院と取り巻きを排除し、美福門院派を起用し、長子の崇徳天皇を強引に近衛天皇に譲位させた。
 病弱な近衛天皇は早世し、次の天皇候補に二条天皇が定めらえていたが、幼少の為に、中継ぎで後白河天皇が即位した。譲位した崇徳院派がクーデターを起こし失敗し、後白河天皇は幼少の頃からの近臣者の信西が政務を執るが、強硬な政策に公家・公卿らの反発と不満が続出し、後白河法皇が起用し、代わって頭角を現した、信頼が信西反対派の不満を吸収し信頼派が、信西総師を転覆させるクーデターを決行し、信西は逃亡を図るが、失敗、首を撥ねられて晒し首になった。
 信頼は、成功したかに見えたが、公家・貴族は信西の失脚で信頼の政権を望まず、白浜に赴いていた清盛が帰京して、形勢は一変し、信頼は六波羅で戦って敗北し処刑された。
 しかし、そこには暗主 後白河法王の院政の策略があった。次に台頭する平氏の清盛と協調体制から対立関係に、院政停止、再開と繰り返し、驕る平氏の清盛の横暴と強権に後白河院は南都・北嶺の僧兵に悩まされながら、源氏の蜂起によって福原に遷都の途中に清盛包囲網に連続しての戦いの最中清盛は死去し、幼い安徳天皇を保護しながら頼朝との交渉中半の六十六歳で六条殿崩御した。

「歴史研究」2020年3月号・特集「明智光秀」川村一彦「戦国武士・明智光秀の真意」

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「歴史研究」2020年3月号・特集「明智光秀」川村一彦「戦国武士・明智光秀の真意」

明智光秀言えば主君信長を裏切り本能寺で謀反を企て、天下人を志半ばで横死させた武士道に背く歴史上でも評判は芳しくない。

明智氏の出自は美濃源氏土岐市の庶流と伝えられ「永禄諸役人付」に足軽衆明智とあるので足利義輝の代から幕臣だと思われる。

永禄八年(1565)義輝が殺害されたのちに、越前は朝倉義景に仕えたらしい。1568年足利義昭が義景の下を去って織田信長を頼った際に、細川藤孝とともにその仲介工作をしたと伝えられる。以降光秀は足利家の幕臣であるとともに信長にも仕えることになる。同年義昭・信長の上洛に従い、信長に認められて、公家・寺社領の仕置きなど京都近辺の政務を天正3年(1575)頃まで担当したという。

他方、武将としても、元亀元(1570)信長の朝倉・浅井攻めに参加し、翌年近江南部の一向一揆や延暦寺焼き討ち後に、その旧領近江国志賀郡を与えられ坂本城を築城した。この頃より義昭とは不仲になり、1573年信長が義昭を攻めて追放した際に信長方に従軍している。

その後信長に重用され、丹波攻略、大和の筒井順慶を指揮下にし、その後八上城主波多野秀治らを下し出世街道をまっしぐらの光秀は、備中高松城を包囲中の秀吉よりの救援に、各大名の指示を出し、信長自らは僅かの手勢で京都の本能寺に腰を据え、今後の天下平定の構想を思いを巡らしていただろう。

その僅かな隙をついて一万余名の兵を率いて本能寺に討ち入った。戦国の雄者信長も多勢に無勢、無念の死を遂げた。

光秀は京都を押さえると、すぐに信長・信忠父子の残党追捕を行った。さらに信長本拠の安土城への入城と近江を抑えようとするが、勢多城主の山岡景隆瀬田橋と居城を焼いて近江国甲賀郡に退転したため、仮橋の設置に3日間かかった。光秀は、まず坂本城に入り同年6月4日までに近江をほぼ平定し、同年6月5日には安土城に入って信長貯蔵の金銀財宝から名物を強奪して自分の家臣や味方に与えるなどした。

同年6月7日には誠仁親王は、吉田兼和勅使として安土城に派遣し、京都の治安維持を任せている。

京都市中が騒動し、混乱を憂いてのことと思われるが、この時に兼和は「今度の謀反の存分儀雑談なり」と記し「謀反」としている。光秀はこの後、同年6月8日に安土を発って、同年6月9日には宮中に参内して朝廷に銀500枚を献上し、京都五山大徳寺にも銀各100枚を献納、勅使の兼見にも銀50枚を贈った。

だが、光秀寄騎で姻戚関係もある丹後の細川幽斎・忠興親子は信長への弔意を示すために髻を払い、松井康之を通じて神戸信孝に二心の無いことを示し、さらに光秀の娘で忠興の正室・珠(後の細川ガラシャ)を幽閉して光秀の誘いを拒絶した。

『老人雑話』には「明智(光秀)、始め(は)細川幽斎の臣なり」とあり、両者の上下関係は歴然としていることから、細川幽斎には光秀の支配下に入ることを潔しとしない風があったとされている。

また、同じく大和一国を支配する寄騎の筒井順慶も秀吉に味方した。ただし筒井に関しては秀吉が帰還するまでは消極的ながらも近江に兵を出して光秀に協力していた。

また、詳細は後述するが、高山右近ら摂津衆を先に秀吉に押さえられたことが大きいとフロイスが『日本史』で指摘している。

本能寺の変を知り急遽、毛利氏と和睦して中国地方から引き返してきた羽柴秀吉の軍を、事変から11日後の同年13(1582年)、天王山の麓の山崎(現在の京都府大山崎町と大阪府島本町にまたがる地域)で新政権を整える間もなく迎え撃つことになった。

決戦時の兵力は、羽柴軍2万7千人(池田恒興4,000人、中川清秀2,500人、織田信孝、丹羽長秀、蜂屋頼隆ら8,000人。但し4万人の説もあり)に対し明智軍1万7千人(1万6千人から1万8千人の説もあり、さらに1万人余りとする説もある)。

兵数は秀吉軍が勝っていたが、天王山と淀川の間の狭い地域には両軍とも3千人程度しか展開できず、合戦が長引けば、明智軍にとって好ましい影響(にわか連合である羽柴軍の統率の混乱や周辺勢力の光秀への味方)が予想でき、羽柴軍にとって決して楽観できる状況ではなかった。

羽柴軍の主力は備中高松城の戦いからの中国大返しで疲弊しており、高山右近や中川清秀等、現地で合流した諸勢の活躍に期待する他はなかった。

信長謀反の横死をいち早く聞きつけた秀吉の機転の利いた中国大返しによってあっけなく敗れ落ち行く途中で武者狩りに殺害された。光秀の謀反の真意は「怨恨説」「出世欲」天下取り説」いずれにせよ、光秀自身には如何ばかりの勝算があったのか、未だその理由は闇の中である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「土岐氏一族の群像」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WAL」

土岐
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美濃国の武家。清和源氏。平安後期、源国房、光国の頃に美濃に拠点を築き、光信、光衡の頃に土岐郡に土着し、土岐氏を名乗った。承久の乱で幕府方についたことで美濃国内で勢力を伸ばし、執権北条氏とも婚姻関係を持った。正中の変で一族が関係したが、南北朝の内乱に於いて土岐頼貞(?~1339)は足利尊氏に従い、その軍功により美濃守護になった。
土岐頼康の代には美濃・尾張・伊勢の三国を守護として勢力を拡大したが、その子土岐廉行の時、一族の内紛によって明徳元年(1390)幕府軍の追討を受けた。その後、美濃一国の守護として存続したが、応仁・文明の乱のころからは守護代斎藤氏によって実権は奪われ、天文21年(1552)土岐頼芸の時に斉藤道三によって追放され、守護土岐氏は滅亡した。庶流は土岐世保家・常陸土岐氏・明智土岐氏と江戸時代になっても旗本として土岐氏の血筋を伝えている。

「小田原征伐の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER

小田原城の攻防「小田原征伐の攻防」アマゾン電子書籍紹介。角川・BOOK★WALKER
「小田原征伐」(おだわらせいばつ)は、天正18年(1590)に豊臣秀吉が後北条氏を征伐し降した歴史事象・戦役。
 後北条氏が秀吉の沼田領裁定の一部について武力をもっての履行を惣無事令違反とみなされたことをきっかけに起こった戦いである。後陽成天皇は秀吉に後北条氏討伐の勅書を発しなかったものの、遠征を前に秀吉に節刀を授けており関白であった秀吉は、天皇の施策遂行者として臨んだ。
「小田原征伐」は、天正18年(1590)、豊臣秀吉が小田原(神奈川県小田原市)を本城とする北条氏政・氏直(うじなお)父子を攻撃し滅亡させた戦い。後北条(ごほうじょう)氏は戦国時代の風雲に乗じた伊勢新九郎長氏(いせしんくろうながうじ)(北条早雲(そううん))を祖とし、5代にわたって関東と伊豆一帯を制覇した戦国大名であったが、中央の政治情勢の推移から独立し東国を抑えていた。
しかも、250万石の石高を有する大大名であった。秀吉の上洛を応じず関八州の支配を主張した。
 すでに九州を平定して全国統一に乗り出した秀吉はしばしばその上洛(じょうらく)を促したが、氏政らは肯(がえん)じなかった。
 上州(群馬県)の名胡桃城(なぐるみじょう)の帰属をめぐって真田(さなだ)氏と対立した氏直が出兵したことを機として、秀吉は前年1589年末に天下に北条討伐を命じ、西国の大名や水軍をも動員し、先鋒(せんぽう)には徳川家康をあてて東海道、東山道から進攻させ、山中、足柄(あしがら)、韮山(にらやま)、岩槻(いわつき)、鉢形(はちがた)、八王子、館林(たてばやし)、忍(おし)などの支城を包囲、攻撃させた。
 秀吉は、1590年3月、自ら小田原城を望む早川対岸の石垣山に本営を構え、籠城(ろうじょう)策をとる北条方を陸海から包囲して武威を示した。
 3月末から約100日に及ぶ攻撃のため、北条軍の士気は阻喪し、とくに重臣松田憲秀(まつだのりひで)らの内応もあったため、6月末についに北条氏政以下が降伏した。
 秀吉は、氏政と弟氏照(うじてる)を自決させ、当主氏直を許して高野山(こうやさん)に追放、松田憲秀、大道寺政繁(だいどうじまさしげ)の重臣を斬(き)った。
 また戦後、北条氏の旧領をすべて家康に与え、駿河(するが)、遠江(とおとうみ)、三河の旧領から絶縁させて江戸に移らせた。この戦陣中、伊達政宗(だてまさむね)も秀吉に来応して屈服、この戦(いくさ)によって天下統一が完成した
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著者紹介
1943年東大阪市生まれ。著書紹介・歴史研究会に参加、歴史大賞」受賞。書籍・『太閤の夢の夢』『政僧・天海と崇伝』『重源』『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』『日本仏教十三宗諸派総覧』『日本神道の神々』『芭蕉紀行漂泊の憧憬』『重源』歴研出版より、『平安僧兵奮戦記』840円。自費出版多数、アマゾン電子書籍・。BOOK★WALKER電子書籍」」『宇都宮城釣天井事件』『芭蕉紀行漂泊の憧憬』『幕藩一揆の攻防』「古事記が描く古代の憧憬』『古代史の群像の標榜』『古事記が紡ぐ一ノ宮の神々』『中世仏教立宗開花』『古事記が描く古代の世界』『徐福・神仙郷に消える』『平城京の麻呂の騒乱』『重源』『天明飢饉の鎮魂』『幕政三改革の世情と功罪』『魏志和人伝』『犬将軍綱吉の治世』『政僧・天海と崇伝』『修験道の神仏』『神仏分離令の功罪』『宇都宮城釣天井事件』『風雲三好一族の攻防』『大久保長安事件の陰謀』『秀次切腹事件』『日本二十三大師の足跡』『日本十三宗諸派総覧』『日本神道の神々』『幕藩・禍根の清算』『幕藩大名家の存亡』『太閤の夢の夢』『南都・北嶺の僧乱記』『戦国大名』・『敗将の有終』『足利将軍家の変遷」『大名家のお家騒動』『小田原征伐の攻防』『秀吉・紀州征伐の攻略』『後白河・院政の攻防』『五山十刹』『将軍家を支えた幕閣』「戦国武将の群像」シーリーズ多数。「歴史の回想」・シリーズ多数。他。参考資料・歴史大事典・プリタニカ、 ウィキペディア・ニッポニカ・広辞苑・他多数。

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